天城越え

静岡新聞コラム(第8回)です。

 来年1月26日に「天城北道路」が開通するとのこと。さらに伊豆半島が近くなります。たくさんの観光客が訪れますように。

 

静岡新聞 2017年2月23日掲載)

 昨年大みそかNHK紅白歌合戦、紅組のトリは石川さゆりの名曲「天城越え」だった。うまく歌えたらと思うのだが、なかなか難しい。そして、現実の天城越えは昔から歌以上の難所であった。

 

 伊豆はその昔、流刑地とされたことがある。のちに源氏を再興し、鎌倉幕府を開くこととなる源頼朝は、蛭ケ小島に流されていたと言われている。だが、この蛭ケ小島ですら、天城よりもはるか手前である。
 天城を越える道は、時代の変遷とともにいくつか切り開かれている。太平の眠りを覚ましたペリー来航後、初代駐日米国総領事となったタウンゼント・ハリスは、下田から江戸に向かう際、現在の天城峠ではなく二本杉峠を越えている。
 1857年(安政4年)に完成した韮山反射炉に用いられた耐火煉瓦は、河津町で製造されているが、こちらも天城峠は越えていない。下田へ運ばれ、下田からは船で沼津へ、そして狩野川を上って、韮山へと運ばれている。

 

 現在の天城峠は、1904年(明治37年)に完成した天城トンネルによってできた峠である。井上靖しろばんば」の作中からは、その当時、洪作少年の住む湯ヶ島から下田までは馬車で天城峠を越えることができたことがうかがえる。ただ、下田までは4時間ほどもかかる道のりであった。

 

 今私どもは、わずか60分で沼津から天城峠を越えて下田へと至る、伊豆縦貫道の天城越えルートの検討を進めている。歌はうまくならないかもしれないが、この天城越えにまつわる多くの人々の思いを胸に、新たな峠道を切り開きたい。